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執筆者の写真松井重樹

週刊読んDayMonth 20200522

更新日:2020年7月30日

2020年5月22日(金)

「鬼平犯科帳」池波正太郎著

:文春文庫(1)1974年12月25日第1刷1989年9月5日第27刷8作品~768777677/7766161667/612(24)1994年1月10日第1刷3作品の計135編(うち特別長編5)くわえて「鬼平犯科帳の世界」池波正太郎編1990年5月10日第1刷。

 著者池波正太郎がこの世を去ってちょうど30年にあたるGW5月3日より、

書棚から取り出し、25冊合計はかったか…はからずもか…ちょうど7600ページ、

その一ページ一ページそれぞれに風を入れました。

 そして…、3週間。

 武漢新型コロナウィルス感染症対策に身を処する期間、こころの栞をそっとはがし、またもどす、一服の良薬となりました。

 大正12年(1923)1月浅草に生まれた池波正太郎は、下谷の西町小学校を卒業後、12才で茅場町の株式仲買店に勤め、一般の人より一足も二足も早く、他人のなか、まさに人の間に入りました。商売柄多くの人と接触したことで、多感な心が揺さぶられ、人情の機微にふれたことであろうことは、想像に難くありません。


 その彼が、時代小説を手がける創造の喜びへと至ったのは、機械工として軍事徴用され、旋盤にとり組んでからだといいます。そのころ手にしたという、アランの「精神と情熱に関する81章」。「物は、いろいろ推量してみたり、ためしてみたりして初めて知覚される」といったアランの言葉が、旋盤を相手に悪戦苦闘している彼の心身にそのまま結びついてきました。小説は、頭で書くのではなく、身体全体で書くものだといった実感が、おのずと自得されたのも、その時の体験と関連しているようです。

 太平洋戦争末期には横須賀海兵団に入団し、武山海兵団を経て磯子の801空へ転属、米子の美保航空基地で敗戦を迎えました。

 戦後は、東京都職員=下谷区役所で予防衛生係となり、徴税係に転じ、昭和30年(1955)目黒税務事務所を辞め、作家生活に。

 昭和21年に書いた戯曲「雪晴れ」が読売新聞の演劇文化賞第四位に選ばれ、次作「南風が吹く窓」が佳作に入選。

 選者の一人、長谷川伸に昭和23年から師事し、劇作研究会で研鑽を努め、「錯乱」で昭和35年に第43回直木賞を受賞。鬼平犯科帳の第1回作品「浅草・御厩河岸」が「オール読物」誌上に登場したのは、昭和42年(1967)12月。

「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。 善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。 悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ」。

「小を見捨てて大が成ろうか」。

「人間という生きものは理屈とは全く無縁のものなのに…どうも、得てして理づめに生きたがるのがおかしい」

​​「小悪を捕えて手柄を立てむがため、お上の御役目をつとむる者が、もしも大悪と手をむすんでいるようなことがあっては一大事となろう」

​ 鬼平を借りて、著者のうめきが…、今の世にも響きます。


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